お金は手段であって目的では無い!ということ。

あなたは良く見掛けませんか?

目的と手段が入れ替わってしまった人を。

それって在り勝ちですよね。目標を達成するために色々と手段を尽くしていたら、いつの間にか手段が目的化してしまう事って。

でも、そういう場合、結局は目的そのものが御座なりになって達成される事はありません。いわゆる本末転倒って奴です。

目的が人生設計に関わるほど大きなものであれば、それは悲劇でしかありません。本来どうでも良かった筈の事に命を掛ける間抜けな事になりかねないのです。

お金は手段である!

お金と言うのは便利な物ではありますが、これ自体は札束であれば紙切れに過ぎません。これはお互いのコンセンサスによって価値を付加している物です。


言わばツールみたいなものです。

これを使って、あらゆる物を取引出来るようにしよう、と言う約束事があって、それが徹底しているが為に機能しているに過ぎません。

その暗黙の了解が崩れされば途端に紙くずになります。具体的に言えばハイパーインフレとなるのです。

何か欲しい物が有った時、人はお金を使います。欲しい物が目的でお金は手段です。

お金自体には食べることも出来ないし、絵を書く道具にもなりません。機能としてあるのはは何とでも交換出来ると言う取り決めです。

それが基本フォーマットです。

お金はその物やサービスを手に入れるための手段でしかなく、それ以外は有り得ては行けない筈です。

しかしながら、現実のお金という物は、物を手に入れる為の手段である立場を逸脱し、お金その物が目的化してしまっている事が多いです。

マネーゲームと言われるようにお金がお金を生み出すような投機的なシステムが作られ、お金でお金を手に入れようとするギャンブルが幅を利かせています。

お金を直接手に入れようとする、強盗、窃盗などの犯罪も後を絶ちません。

女性は男性を直接好きにならず、その向こうにあるお金が目的で恋愛を繰り返します。

典型的な事例

お金というものが、手段と目的が入れ替わってしまう典型的な事例です。そして、その歪みから犯罪が多発し悲劇が生まれているのです。

人類はお金というか画期的な発明をしました。

言語とお金は他の動物では絶対見られない物です。その発達によって人類は文明を築き文化を切り開いたのです。

ホモサピエンスが生き残ってネアンデールタール人が滅んだのは文化を愛でる感性に差があったからだと言われています。

そして文化を愛でる感性が貨幣文化を築き、経済というシステムへと昇華されたのです。

しかし、成熟した筈の貨幣文化には手段としての貨幣が目的化してしまうという歪みが生まれ悲劇が発生しているのです。

これは最早文化的な行動ではなく退化した思考です。後退した感性です。

今一度、「手段」であるお金本来の姿に立ち返って、悲劇を無くし、文化を更に発達させるべき時代に来たのでは無いでしょうか?
調整中

0 件のコメント :

コメントを投稿