阿吽の呼吸という無責任体制。

日本人の古来の文化(?)として阿吽の呼吸と言うのがあります。

有名なお寺の門にも阿吽の像が飾られている場所もあります。まぁ、ツーカーの関係とも言えるかも知れません。


この以心伝心と言うか、物言わずともアイコンタクトや場の雰囲気で意思の疎通を図ることこそが、究極の関係、あるいは目指すべき関係として持て囃されるのが日本の文化です。


こう言われると、阿吽の呼吸と言う関係性は一見非常に良いことに様に思えます。

しかしながら、どうでしょうか?

こういう関係を礼参することが日本人の無責任体制を生み出して来たのではないでしょうか?

しかてして、その実態は?

阿吽の呼吸と言うのは一種のテレパシーみたいな物です。両者間の意志が伝達されたかどうかは全く証拠は残りません(笑)

言わば言ったもん勝ちみたいな物です。

つまり、阿吽の呼吸と理由で物事が片付けられてしまうと、後でトラブルになった時に責任者を特定する手段がありません。


必ず当事者同士で責任のなすり合いになります。

そこには言質すらありませんから、目撃者すら存在しません。

ですから、そういう価値観がまかり通ると全体が無責任体制となり、誰かが責任を取るというシステムが作れません。

軍部と連帯責任

そして、その変わりに横行したのが連帯責任という集団指導体制。


連帯責任と言う風習は日本に古くからある伝統のように錯覚している人も多いみたいですが、明治以降だと思われます。

中央集権体制の元、軍事強国となるには、この連帯責任という制度は非常に都合が良かったのです。

それ以前は意外に無責任体制が横行していたのです。

江戸時代は身分階級においては連帯責任みたいな制度はありました。一家断絶みたいな歴史はあった訳です。

ですが庶民の間にはこそ泥、空き巣、山賊が横行し、今みたいに警察制度は発達しているとは言い難い状況な訳で捕まえられる犯罪者は氷山の一角に過ぎなかったであろうと考えられます。

そんな状況下で責任論なんて言う考え方が熟成される筈もありません。


ある意味そういう知識程度が低い国民を拐かすには連帯責任という責任者不在の無責任制度が非常に都合が良かった物と思われます。

戦後の日本では‥

そして、その集団責任体制の化けの皮が敗戦と言う革命によって崩れ去る訳ですが、その亡霊みたな価値観は今でも日本人の心の中から無くなってはいません。

それは図らずも阿吽の呼吸と言う耳障り良い言葉よって美化されてしまうのです。

阿吽の呼吸と言うのは元来、悪い意味ではありません。高度な師弟関係やパートナーシップを表す状態を意味する言葉ではあるのです。


でも、その価値観が濫用されれば、それは無責任へと繋がってしまうのです。
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