ということは、いま世間を騒がせているLGBTの社会問題と切り離すべき現象なのでしょうか?
ちょっとややこしい(笑)
性同一性の国際問題
少なくとも見た目の夫婦関係は同じです。ただ、見た目の性別と肉体的な性別は真逆ってだけです。外見的に亭主みたいな人が肉体的には女性で、外見的に女房みたいな人が肉体的には男性である訳ですね。
考えると、やっぱりややこしいww
こうやって見ると、心の性と体の性と言うものは必ずしも一致するばかりではないと言うことが分かります。
ですから性同一性障害と言う言い方をするのでしょう。
ただ、それを「障害」と捉えるのはどうなんでしょうか?
心と体の性別
ところで、心の性と肉体の性の組み合わせで性別と言うもの考察した時、人間の性別と言うのは結構な数に登りますよね。人間の性別って、一体幾つあるんでしょうか?
肉体的には勿論二つ、男と女ですが、心の性との組合だけで計算すると2×2で4つという事になります。
また最近では、心の性の中に無性というものがあって、それを入れると6つと言う事になります。
また、心の性が女性であっても、さっぱりした男みたいな性格の女性も居れば、女子力が高い女性も居ます。
でもそこまで考えると、8とか16とか、・・・ホント、無数の性別がある事になりますね。。。
そもそもLGBTと言うくらいですから、4つの男女以外の性別があって、心の性だけでも6つあるんですよね。それに無性を加えると7つ。
だから最低でも表面的な性別は14種類以上はあることになります。
それって究極的にはトイレも14種類いるんでしょうか??
タイは性別の先進国
ゲイの先進国であるタイに行けば、いろん形でLGBTの人が存在しています。日本ではまだまだ社会的迫害が強く、ゲイと言えばゲイバーで働いているイメージがあります。実際そういう職場でしか働けない環境もあるでしょう。
ところが、タイなどではゲイの社会的認知度が高いですから、バーだけじゃなく、その辺の職場や、あるいは公務員まで、普通の会社員としてゲイの人たちが働いています。
ゲイ専門のミスコンまでやっているのは有名な話です。
日本もやがてはそこまで行くかもしれませんが、まだまだ道のりは険しそうです。
とはいえ同一性障害の人々と接するのに個人個人で温度差もあるでしょう。でもそこを乗り越えて人として対等に接するのが人間のあるべき姿です。
生理的な要因と道義的対応の間に…。
LGBTの方々を生理的に受け付けないと言う人は少なくありません。人間的には受け入れる事が出来ても、性的には無理だと言う人も多いかと思います。つまり恋愛対象としては無理ということです。
でもこれは差別でも何でもありません。
その違いは誰でも分かりますよね。
ノン気の人がゲイの人に迫られて、それを拒否したからと言って、それが差別と呼べるでしょうか?
もしそんな事で差別が成り立つと主張するのであれば、最早、それは逆セクハラであり、自由であるべき恋愛感情を拘束する人権弾圧そのものです(笑)
切り分けが大事!
LGBTの問題は、人間的・道義的距離感と肉体的・生理的距離感を分けて考える必要が絶対にあります。そこがこの問題をややこしくしている根幹なのではないでしょうか?
逆に言うとその切り分けが出来れば差別など無い筈です。
ゲイなどを差別する人たちは、それを生理的に受け付けられないが故に、そのまま嫌悪感を抱き、差別感情を持ってしまうケースが大半だと思います。
原因は非常にシンプルです。
しかしながら、それを誤魔化す為に、最もらしい生物学的な屁理屈を付けたり民俗学的な理屈を付けて彼らは自分たちを正当化しようとします。
好き嫌いという単純な感情で差別していない、と言う体裁を取ろうとするのです。
とは言え、そういう薄っぺらいメッキはすぐに剥がれます。彼らの理屈はそれこそ屁理屈以上には聞こえないのです。残念ながら。
生理的に受け付けはしなくても、LGBTの人を差別していない人はたくさん居ます。僕も当然そのつもりです。
そういう人達は、差別する人種とは違い、道義的距離感と生理的距離感とをちゃんと切り分けて考えているのです。
シンプルに言えば、LGBTの人を、彼氏(あるいは彼女)には出来ないけど、人として尊敬したり友達とかにはなれる。ということです。
あれはあれ、それはそれ、と分けられるという事です。
そんな難しい話ではありません。
現状差別している連中も、それと同じく道義的部分と生理的部分をちゃんと切り分けて考える発想に至れば、差別意識も大分薄らぐのではないでしょうか?
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